隠キャ日記

おまえはおまえのままでいい

恋愛ソングが聞けない童貞はまだ精神が子供なんだって

 

 

俺は内省的な歌詞の曲しか聞くことができない。

内省的というのがどういうことか。

この言葉は「Rhyme Scheme」というYouTubeチャンネルから引用したものである。

「Rhyme Scheme」は日本語ラップの名曲たちの韻の構成を紹介してくれるチャンネルだ。

動画の概要欄には扱う曲の紹介文があるのだが、自分が好きな曲の紹介には必ず‘‘内省的‘‘というワードが記されていて驚いた。

 

具体的に言えば以下のようなものだ。

 


1 LIBROの『雨降りの月曜』

紹介文:やわらかい言葉で綴られる内省的なリリックとメロディアスなフロウ、詩としての強度を持たせる固い韻。

 

2 OZworldの『ninokuni』

紹介文:‘‘大人って何考えさせられる毎日‘‘や‘‘当たり前だと思っていたことが今になって曲がって見える‘‘など内省的な部分が見てとれる。

 

 

これを読んだときに見事に自分の好みを言語化してくれたと感動した。

世界や他者に対しての言及(自分→世界)ではなく、自らの在り方を問うような歌詞(自分:世界)が好きで、それを一言でいえばまさしく「内省的」だ。

日本語ラップに限らず自分が好きな曲の歌詞はことごとく内省的なのである。

 

ならばなぜ俺は内省的なリリックが好きなのか。

その答えについて『アイデンティティの心理学』という本を読んで腑に落ちた部分があったので自らの整理のためにもここに書いておく。

 

私は昔から相も変わらず恋だとか友情とか仲間だとかの歌には惹かれないのである。

「そんなの経験がないから興味がないだけだろ」と言われれば確かにそうだろうがそんな野暮なことはわざわざ書かん。

言いたいのはもっと精神構造とか根本的なことだ。

 

内省的の反義語がないようなので、恋とか友情とか俺の好まないものを反内省的と呼ぶとして、なぜそれらが聞けず、内省的なものを私は好むのか。

結論から言えば、外部にぶつける自分がない=アイデンティティの確立がされていないからのようだ。

内省的な曲というのは、自らのアイデンティティへの問いかけである。

自分がどんな人間であるか、何をしたいのかがはっきりとしていない。そういう状態だから内省的リリックに共感しやすい。

心理学用語でいえば「アイデンティティ拡散」といわれる状態であり、アイデンティティの確立具合でいえば有名な‘‘モラトリアム‘‘状態以下らしい。

心理学者エリクソンの提唱した「個体発達文化の図式」-各年代における心理・社会的に必要な能力の獲得目安―によれば、こうした葛藤は思春期に行われるべきという。

思春期において自分の理想とのギャップを受け入れ、オリジナリティを作り上げる。

これが明確にできていないまま来てしまったのでまだ自分のアイデンティティを見つけられずに、ヒントを与えてほしくて内省的な曲を聴くのである。

 


以下は反内省的な曲が好きじゃない理由になる。

先ほど「個体発達文化の図式」における思春期の役割を紹介したが、思春期の次に来るのが成人期である。成人期は「思春期において自己を確立したうえで」、他者との親密な関係を築く段階だ。というのも、確立した自己を持ったうえで接してこそ、他者との信頼性を築けるからだ。そうでなくてはどちらか片方に傾いた関係性になってしまうからだという。

考えてみれば当たり前だ、「自分はこうである」と言えない人間が世間に対して意見など言えるわけがない。自分のスタンスが定かではないからだ。

ゆえに「成人期」の発達プロセスに至っていない自分は、反内省的な歌詞に共感ができない。世間にぶつけるような自分がないから当たり前だ。

ああ、いうなれば自分は発達が遅れてしまっているのだ。

冗談めかしく「まだ大人になれてねえな」なんて言ってるのが、実はまごうことなき事実というのは悲しいことだ。

 

今からでも自分のアイデンティティを確立していくしかない。大変だ。

本で触れられていたが、もっとも簡単な方法は「受動アイデンティティ」をつくることだという。いうなれば敷かれたレールに乗ること。社会に与えられたアイデンティティをそのまま自分として受け入れること。どうしてもダサく聞こえてしまう。

でもすでに発達の遅れたものとして早めに選ばなくてはいけない。

今からでも思春期の葛藤をすべきか、敷かれたレールを受け入れるか。

 

ああ、サッカー部入ってサークルで遊んで商社にでも入ってれば今頃こうじゃなかったのかな。1番嫌ってたけどそういうの。